みなさんこんにちは!天です🦋
最近は、夏が来たな―と感じる日が多いですね!私の近況としては、友人と一緒に夏服を買いに行きました!新しいものを買うとテンション上がりますね☺
さて、今回の京都情報ブログは「西本願寺と東本願寺の違い」についてです。

↑東本願寺
住所:京都市下京区烏丸通七条上る
京都には有名なお寺がたくさんありますが、今回は西本願寺と東本願寺について、なぜ西と東に分かれたのかについて紹介します。
そもそも西本願寺も東本願寺も、宗祖である親鸞聖人をお祀りする浄土真宗の寺院です。西本願寺は「浄土真宗本願寺派」、東本願寺は「真宗大谷派」という別の宗派を名乗っています。
ちなみに私の通っている大学は「親鸞聖人の体せられた仏教精神にもとづく人間教育」を建学の精神としており、1回生と3回生で仏教(浄土真宗本願寺派)を必修で学んでいます😶
本題に戻りまして、浄土真宗はなぜ西と東に分かれたのでしょうか。
それは、織田信長と石山本願寺との争いまでさかのぼります。この争いは石山本願寺一揆、石山合戦などとも呼ばれるもので、この争い自体は歴史的にとても有名ですよね。この時、石山本願寺内では、信長と和睦するか、抗戦するかで意見が対立しました。
和睦を主張したのは、石山本願寺の宗主であった顕如と、顕如の三男の准如です。抗戦を主張したのが、顕如の長男の教如です。最終的に顕如が和睦を決め、石山本願寺は信長に明け渡されることになるのですが、この時の対立がもととなり、顕如は浄土真宗の宗主の座を長男の教如ではなく、三男の准如に譲ることとなりました。
その後、信長が本能寺の変で討たれ、和睦を決めた顕如は豊臣秀吉から七条堀川に土地の寄進を受け、御影堂と阿弥陀堂を建築しました。これが現在の西本願寺です。一方、抗戦を主張した教如は、徳川家康に接近し、七条烏丸に寺(現在の東本願寺)の寄進を受けました。
こうして、石山合戦における対立が跡継ぎ問題と絡み、徳川家康の時代に本願寺は、真宗大谷派(東)と浄土真宗本願寺派(西)に分裂することになったそうです。
京都を訪れる際には、こういったお寺の歴史的背景を調べてみても面白いかもしれません。
最後までお読みいただきありがとうございました!
【参考文献】
西本願寺と東本願寺の違い・別れた理由と歴史について – 株式会社鎌倉新書
https://guide.e-ohaka.com/column/news/honganji/#toc2